今年は余りお花は咲かなかったのですが、その後に咲いてくれた山野草たち
です。
シモツケソウ
山アジサイ
二人静
ムラサキシキブ…鳥さんからのプレゼントですが、名前は合っていますでしょうか?
萩
ヤブラン
白の水引草
夏フジ
以前にも綴りましたけれど、お友達からいただいたオカトラノオは、もう10年以上も花を咲かせてはいませんでした。
ですけれど毎年青々と葉っぱだけは茂ってくれるのです。
お店の横のスペースで、植木鉢を置いて雨の当たる部分はこれだけなのです💦
ですので正直なところ、いくら葉は茂ってくれても何年も花が咲かないのであれば少し迷惑な存在でもあり、何度か撤去しようかと迷いました😥
ですが毎年健気に葉が出てきてくれるのに、とてもそれは出来る事ではありませんでした。
ところがところがです、今年咲いてくれたのですよ❣️
そしてもう一つ、半夏生(ハンゲショウ)なのですが、こちらもオカトラノオと同じくらい長く花を咲かせる事もなく、名前の由来のとおりに葉の部分が半分白く化粧をした様になるという事もなく、ただ葉っぱだけは青々と茂ってくれていましたけれど、どうしたものかと悩みのタネでした。
ところがところがです、こちらも化粧をしてくれたのですよ❣️
毎年眺めては思案していた私の心を、深く反省させられる出来事でした🙇♀️
簡単に答えを出してはいけない、長い目で物事を見なければと教えてくれたのだと思います。
以前にも少し触れた事があるのですが、私が30歳後半の頃からだったでしょうか、ボランティアで6年半程の間中学校の部活で監督、コーチとして卓球部の指導をしていました。
学生時代にかなり熱心に卓球に打ち込み、山口に住む様になってからも地区の体育祭に駆り出されたりしていたものですから、その噂を生徒が聞いて是非指導に来て貰いたいと顧問に申し出たのが始まりでした。
突然の顧問の先生からの連絡で驚きはしたものの、子供達のたっての願いとあってお引き受けする事にしたのです。
後から聞いたところによると、職員会議では外部からの指導者を校内に入れる事に賛成と反対が半々だったとか。
何の資格がある訳でもなく、どの様な人間かもわからないまま学校内に部外者を入れ、子供達の指導者にさせるなどとむしろ暴挙であり、反対されるのは当然の事と思います。
よく門戸を開かれたものだと感心するほどです。
今はどの様になっているかわかりませんけれど、当時は部活には熱心な先生だけが指導に出られて、強制的ではありませんでした。
指導者の居なかった卓球部は、私が出だした頃は卓球台の周りで皆鬼ごっこをして遊んでいました💦
男子も女子もとなるとどっちつかずの中途半端になってしまうので、男子にはとても気の毒でしたけれど指導に出て欲しいと申し出た子が女子でしたので、時には試合前に男子も見る事がありましたけれど女子の指導に専念しました。
私もそうであったように、取り敢えず卓球部にでも入ろうかという動機で入部する子が多く、毎学年卓球部は入部者が多かったです。
押しつけではなく、子供たちの方から強くなりたいと願った想いがきっかけでしたので、毎学年私がどの様な経緯で指導者として出ているのか何の説明もどこからもありませんでしたけれど、どの子達も一生懸命頑張ってくれました。
最初は一回戦で敗退していましたのが、すぐにそれなりの結果が出る様になりました。
日本中学校体育連盟が主催する県予選の大会に出場するには、当時四つのシングルスとダブルスが一つで、ベストメンバーで戦うと6名しか出してあげる事が出来ません。
メンバーを決定する前はいつも3年生全員でミーティングをして、普段の練習試合の結果などを元に皆が納得出来る様にレギュラーを決めていました。
ですけれど、他の子達も試合に出してやりたい。
そうなると日曜日に開催される県や市の一般の大会は参加者に制限がないのです。
希望者には参加させてあげられる様、いつも試合には引率しました。
三年生は誰一人参加しない者はいませんでした。
その内よく大学生や一般の人達からも、少しは手加減してねと言われる様になるほど上達しました。
試合に勝つ様になると子供達もより意欲が出て、皆のやる気に応えるべく私の指導者生活も土曜日も日曜日もなくて、一年の内お休みはお盆とお正月の3日間だけとなりました。
出来るだけ長く練習の相手をしてあげたいけれど三年生全員を平等にとなると、一人5分ずつ位しか時間が取れませんでした。
それでもその時間は皆真剣に向かってきました。
顧問の女性の先生はとても物静かな運動などとはかけ離れた方で、部活をしている体育館に覗きに来られることもありませんでしたけれど、
登録されていたのでしょう、公式戦で私がベンチ入りする時がいつも唯一ご一緒にお喋りする時間でした。
練習の状況などをお話しすると、試合の前日まで皆平等に同じ練習をしている事に、試合前くらいはレギュラー中心にされて良いですのにと気を遣って下さったり、子供達へのアドバイスを感心しながら聞かれたり、職員室では目立たなかったり、むしろ目を付けられている子が試合で活躍しているととても驚かれて、今日は⚪︎⚪︎さんdayですね、と感激されたりしていました。
本当に全面的に理解し信頼して下さっていたと、とても有り難く感謝しています。
一度だけ、事と次第によってはやめようかと思った事がありました。
公式戦前のある夜、生徒のお父様からのお電話でした。
ご挨拶の言葉もないまま、怒りを押し殺した様な低い声で、どうしてうちの娘を試合に出さないのかという抗議のお電話でした。
私は毎回の、生徒達とのミーティングで話し合って出来るだけ公明正大に決める公式戦でのレギュラーの選び方などご説明し、私としては変更する意思はありませんけれど、これは私一人で決定出来る事ではありませんので顧問や学校の意見を伺いますとお返事しました。
翌日顧問の先生にご相談しましたところ、毎日見ている私の判断が一番間違いがないと仰って、そのままで良いということになりました。
あの時もし抗議に屈して変更する様な事になればこれから先も起こり得る事で、生徒達に申し訳が立たないと思い、やめる覚悟でおりました。
その後お父様からは何のご連絡もありませんでしたけれど、その子が卒業して2年程経ったある日、たまたまお母様と道で出会いました。
どうもお父様からのお電話はご存知ない様でしたけれど、元々余りお話しも上手に出来ない内向的な所のあった子でしたので、高校に進学してからはお友達も出来ずに一人孤立していて、中学校の部活でどれだけ庇って頂いていたかを思い知りました、とお話しされました。
手の届かない所に行ってしまった子の姿を思い浮かべてどうしているだろうかととても心配になりましたけれど、どうする事も出来ませんでした。
6年余りの間には色々な子供と出会いました。
深い傷ではなかったけれど、手首に幾つかの傷を付けている落ち着きのない子がいました。
その子はいつもお返事が素晴らしくハキハキと出来る子で、あなたは本当に返事美人だねって褒めると、その日から表情が輝く様になって明るくなりました。
誰しも認められたい、褒められたいという欲求はありますけれどこれが親子だと中々難しくて、第三者だからこそ出来るという事もあります。
又生徒会長も務めるキャプテンでしたけれど、ある時話を聞くと、いじめに合っているとの事。
その子はお勉強もよく出来て、周りの皆より少し大人の雰囲気を持った子でした。
その事がまだ子供っぽいままの子達からすれば面白くなかったのでしょう。
表立って庇うと逆効果になりますので、もう少しして高校生になるとあなたに合うお友達が出来るからと陰で支える様にしました。
卒業後話を聞きますと、当時は涙で目覚めたこともありましたけれど、今なら笑って会えるとの事でした。
運動神経はイマイチなのだけれどやる気のある子で希望すれば、使いこなすのが難しいけれど特殊な回転のかかるラバーのラケットで挑戦するよう指導し、それぞれが成功しました。
三年生の最後の県大予選ではリーグ戦でしたので、最後に公式戦に全員を出してあげるチャンスですので、オーダーを組むのにとても苦心しました。
ベストメンバーで戦えば間違いなく勝てる試合でもその中に負けるかもしれないメンバーを組み込むと、試合はやってみなければわかりませんので一つ間違えれば勝てる試合も落としてしまう、大きな賭けでした。
それでもたとえ落としても他のメンバーでカバーして、どの学年も外す事なく全員を参加させる事に成功しました。
これは神様からのご褒美だと思っています。
もう一つ神様からのご褒美と思えるのは、公式戦以外の試合を私一人で引率していて、6年間余りの間事故やトラブルなど何も起こらなかった事、これは本当に幸運だったと思います。
途中で他校に優勝請負人の様な先生が転校して来られて、そちらはレギュラーメンバーだけに練習をさせて、遠征に連れ歩かれたり合宿をされたりと当時の中学生には珍しい過激な指導をしていらっしゃいました。
勝たせる為には、それが近道だと思います。
ですけれど皆平等に練習していても、ある程度互角に戦う事が出来ました。
常に強く意識していたことは、子供達に平等である事、そして押し付けないという事でした。
私は部外者が関わる事に、もし何か不都合な事が起こればどうぞもうご遠慮下さいという事になるでしょうから、そうなれば子供達の折角やる気になっている気持ちが宙に浮き、閉ざされる事になりますので、何事も起こらぬ様いつも心に鎧をまとっている状態でした。
何故部活に教師が出ないのかだったり、何故部外者が出ているのかだったりが問題にならない様に、このまま子供達に指導を続ける為には目立たぬ様にひっそりとしている必要がありました。
誰に頼る事もなく、誰に相談する事もなくたった一人でやり通せたのは、これも神様からのご褒美だったのだと思います。
6年間の指導の後、当時は山口を離れる事になっていましたので、その後の生徒達の事は卓球の指導が出来る、私も存じ上げている先生も転校して来られていましたのでお任せしていました。
ところがキャプテンの子が引っ越し先に電話をしてきて、色々相談をするのです。
その度電話を掛け直して相談に答え、とうとう最後の学年の子達の夏休み中の引退試合にはホテルに泊まりながら応援に駆けつけました。
そして県大会出場が叶いました👏
その後結局又新たに山口で居を構える事になるのですが、お話しはあったものの卓球の指導は御辞退しました。
もしあの時お受けしていたら、ここまでという線引きが出来なくて、未だ続けていたかもしれません😅
ジャージ姿で通した年月でしたけれど、その後180度方向転換して、お知り合いだったヨーガンレールのブティックのお店を、次のスタッフが見つかるまでという約束でお手伝いする事になるのです。
精神的にも不安定な中学生の女子を相手の部活動は、技術指導だけだは済まなくて、色々やらかしてもくれましたけれど、一人は事情があって辞めましたけれどトラブルがあった訳でもなく円満にで、後全員がどの学年も最後まで退部する者はいませんでした。
引退後最後の締めくくりは、自宅に皆を招待する事と、全員で遠足に行く事で送り出していました。
何処に行きたいか皆で相談しておきなさいというと、どの学年も必ず最初は徳山市にあるボートレース場、「徳山ボート」と言ってボケるのですよ😆
そして必ずどの学年も、最後は宇部市にあるときわ公園に落ち着くのです🎡
そちらには動物園や遊園地もあって、お昼はお休みの日にお弁当を作って頂だくのは申し訳ないので、中にあるレストランでご馳走するのが恒例でした。
この話は、私も一旦引っ越して山口を出ていますし、住まいも当時とは違って別の所に住んでいて最初に指導して欲しいと学校に要請した子以外お付き合いも途絶えている上、ブログをしていることは誰も知りませんので、綴っても差し障りがないと判断しました。
皆どの学年も本当に良くついてきてくれたと思います。
そしてひょんなことから学校に出ることになった私も、よく6年半も続けられたと思います。
子供達の想いを受け止めてあげたい、裏切れないというただその気持ちだけが私を突き動かしていました。
人は自身の存在を必要とされた時、思いの外強くなれるものなのだと思います。
中々経験出来る事のない、貴重な体験をさせて頂いたと思っています。
長々とお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。